戦国の武将 入田氏一族

入田のHPアーカイブス 戦国の武将 入田氏一族です。

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その昔、入田には入田氏という武将がおりました。豊後(大分県)ではけっこう有力な武家でした。その歴史を紹介します。

■ 中世の入田 入田郷
 現在の竹田市南部地域は、中世には入田郷と呼ばれていました。この入田郷を治めたのが、入田氏一族です。14世紀初め(鎌倉時代末期)に大友親時が次男の泰親に入田郷半分を譲与し、その泰親が入田氏を名乗ったのがはじまりです。入田郷の内、入田氏の所領は主に緒方川流域と考えられています。残り半分(おそらく大野川流域)は、最初は泰親の甥、季親(出羽氏)、その後、直入郷志賀氏の所領となったと考えられています。
       
■戦国武将、入田氏一族
 14世紀初めの入田泰親から七代後の親廉が、16世紀前半に大友氏奉行人として登場し、大友義鑑の重臣(加判衆)の地位を獲得します。子の親実(親真、親誠)の代には、入田郷を拠点に、高森や、阿蘇地方の阿蘇氏などと親戚関係を結ぶなど、直入地方から阿蘇地方まで幅広く勢力を伸ばします。

 しかし、天文19(1550)年の二階崩れの変(義鑑の長男義鎮と末子塩法師丸の後継者争い)で塩法師丸派に立った親実は家中の争いに敗れてしまいます。親実は津賀牟礼城に籠って抵抗するものの、義鎮派に攻められ、親実はじめ多くの一族が戦死し、所領は没収されてしまいました。このとき戦死した、次男親利のものとされる墓が倉木地区の俊瀬にあるとされています。

 天正7(1579)年頃になって、親実の子、義実が宗麟(義鎮)に許され、30年ぶりに入田郷復帰が認められます。義実は、南西部の神原城(小松尾城?)[神原]・緩木城[九重野]を拠点に、旧領の回復を計ったようです。しかし、北部の津賀牟礼城には戸次統貞(大友氏の重臣)が所領を与えられていたため、対立することになります。天正12(1584)年には統貞の意向を受けた大友方の討伐を受け、麓の緩木社が焼かれるなど激しい城攻めを受けますが、これをしのいで、大友方と和睦しています。

 天正14(1586)年末、島津氏が豊後を攻めると、義実はこれに応じて、島津方として参戦します。当初は、津賀牟礼城を落とすなど旧領入田郷を回復することに成功しますが、その後、岡城主志賀親善の反撃にあって、神原・九重野まで攻め込まれています。翌年、島津軍が撤収すると、義実はじめ一族もこれに従い薩摩へ移ります。その後は、日向高城や薩摩川内などに所領を与えられ、薩摩藩士として近世江戸時代を迎えています。
       
■入田氏系図

     泰親やすちか(秀直)・[六代略]・
                   (↓)

     (↓)

・親廉ちかかど・親実ちかざね(親真、親誠)[天文19年二階崩れの変で戦死]
      │    └・義実よしざね[入道宗和、天正15年薩摩へ]・・氏隆→薩摩へ
      │    │                     └・親岑→薩摩へ
   │    └・親利ちかとし[天文19年戦死]

   │    └・鎮氏しげうじ[入道舟度]

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   └・親宗ちかむね[入道常雄、天文19年戦死]

   │  └・親増ちかます[入道増二、天正15年薩摩へ]→薩摩へ

   │  └・氏輝うじてる[入道如心]

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   └・親助ちかすけ[天文19年戦死] 

       
■入田氏のお城
●津賀牟礼城[河宇田・矢原]‥‥河宇田湧水、中島公園名水プールの背後にみえる山上にあるお城。元々入田氏の本城であり入田親実が最後に籠城した城です。現在、堀切や竪堀群などが確認されていますが、これは後で入った戸次氏が入田氏と抗戦したときのものと思われます。

●小松尾城[神原]‥‥神原キャンプ場の背後にある小松尾山(815.4m)上とされる。入田義実の神原での本拠地と考えられます。

●緩木城・高城(入田城)[九重野、高源寺]‥‥緩木城は緩木山上とされる。一方、高城は高源寺集落の背後の山地と想定されます。緩木山上の緩木城が籠城の際に籠った詰めの城と思われます。高源寺一帯が、九重野における入田義実の本拠地と考えられます。

以上、入田氏の歴史です。(資料提供 なかにしさん)

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入田のHP閉鎖後も、これだけは残しておきたいと思ってました。

この情報は、以前竹田市役所の観光課に勤務していた中西さん(現 北九州市立自然史・歴史博物館 学芸員のお城博士)からいただいたものです。

実は、入田のHP開設以後、鹿児島や宮崎の入田さん(多分、入田氏の末裔)から何件か問い合わせをいただき、それならまとめ情報を作ってしまえと思い掲載したページです。今後もどなたかの役に立つかもしれないので、再度こちらにアップしときます。

 

大友宗麟が主役の物語の中では、どうしても大友を裏切り島津方についた武将として取り上げられ、私的には大分県では肩身の狭い思いをしておりました。

しかし、大河ドラマ真田丸黒田官兵衛などを見ていると、戦国の世ではこういう生き方が当たり前だった様に感じます。すべてはお家のため…

 

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